「頑張ることの程度」と「限界」を知ること
札幌市中央区大通にあるカウンセリングオフィス プログレスの向 裕加です。
今週末はパートナーと仲間たちが参加するサロマ湖100kmウルトラマラソンの応援のため、私も現地に赴きます。我が家のリオとルナは、初めての2泊3日のお留守番。2人だけでは心許ないので、今回は初めてペットシッターさんを利用することにしました。今日は打合せのため、シッターさんに来ていただいたのですが…
リオ(♂)は高いところに登ってしまい降りてこず。
ルナにいたっては、ベッドのヘッドボードの裏に挟まって、ずーっとこの格好で隠れていました(苦笑)。わざわざシッターさんが来てくれるのに、「こんな調子じゃ、シッターさんに失礼なのでは?」と思ったりもするのですが、そこはマイペースな猫。恐らく、終始こんな調子であることは間違いないように思います。どうなることやら…。
ところで、今日いらっしゃったシッターさんと話をしていたら、シッターさんの旦那さんも数年前にサロマ湖100kmウルトラマラソンを走ったことがあるランナーであることが判明しました。シッターさんご自身は走られないそうで、100kmマラソンこそ走らないものの私もフルマラソンを走るランナーであることを知り、「すごいですねー!」と言ってくださったのですが、そのときの私の口から咄嗟に出たのは「いえいえ、大したことないですよ」という言葉でした。
私の周りには、ラン仲間がたくさんいます。所属しているチームのメンバーの中で、恐らく一番走力がないのは私です。フルマラソンはもとより、100kmを走れる人、それ以上の距離を走れる人も身近にいたりします。そんな人が、1人や2人じゃないんです!たくさんいるんです!そして、”みんな”、普段からトレーニングのために結構な距離を走っています。そんな人たちに普段から囲まれていると、フルマラソンを走れるくらいでは「いえいえ、大したことないですよ」という感覚になってしまうんですよね。
世の中には、100kmも200kmも走れちゃう人がいます。それはその人の努力の成果なのか、その人に備わっている元々の資質なのかわかりませんが、人間には個体差があります。一人ひとりに得意/不得意があるのはごく当たり前のことで、全員が全員、同じことができるわけもありません。
それなのにもかかわらず、「走る人」というカテゴリーの中に属するというだけで、「他の”みんな”も頑張っているから」と他人を基準にして物事を考えて、無茶な努力をしてみたり、頑張り過ぎてしまったり、自己を過小評価してしまうことは少なくありません。今日の私のシッターさんに対する「いえいえ、(フルマラソンを走れるくらいでは)大したことないですよ」というのは、まさに自己を過小評価している発言ですよね。フルマラソン走れる人の方が、世の中では圧倒的に少数派なのですから!
自分の限界に挑戦する。
素晴らしいことだと思います。でも、ちょっと立ち止まって考えてみて欲しいのです、どこまで頑張れば良いのか…を。他の”みんな”も頑張っているからと、他人を基準にして自分の「限界」を設定してはいませんか?
私たち人間は、スーパーマンではありません。どうあがいても、「死ぬ気で頑張れ!」という精神論だけでは乗り切ることができない「限界」があるのです。どこまで頑張れば良いのか。どこまでが「甘え」で、どこからが「頑張り過ぎ」なのか。それは、自分自身の「限界」を客観的に把握して初めて知り得るものであり、「自分にしかわからないもの」です。
それを理解した上での「自分の限界への挑戦」の先には、夢や幸せ、感動があるかもしれませんが、他人のスタンダードを基準にした行き過ぎた努力は、自分を疲弊させるだけ。極端な場合、気づかないうちに「死」と隣り合わせになる危険性でだってはらんでいるのです。
「頑張ることの程度」と「限界」を知ること。
自分の人生を大切にするためのヒントは、ここに隠されているかも知れません。
カウンセリングオフィス プログレス
臨床心理士 向 裕加